内省の一葉をITのCanvasに貼る

はてなブログがブログとツイッターのミッシングリンクに面白い橋をかける気がしてそれを見届けたい仙台の石井です。

もてなしとはなんだろう

遠方からの来客にもてなしをもって対応する土地でありたい。

中途半端は良くない。

歓迎できるならばするし、半端にするぐらいならば、手を上げずに、別の受け手を探すべきなのだ。

半端な対応をして途中でなげだすならば、相手も困るだろう。

 

もてなし、というのは、”気が変わったら途中でやめる・やってやあげる感でカタテマでやる”、ということとは、およそほど遠いことだ。

 

途中で、出来なくなるぐらいなら、初めから、受け口にならない。それは冷たいようであるが、もてなされる側にとっても、実は、良いではある。

 

40になり、沢山のものが流入してくる。時間が非常にない。

そういう中で、善意をもってできることの外にこぼれて落ちてしまうものが出てくる。それは、半端な仕事になる。仕事と違って、成果を確約するものじゃないから、それですまされてしまうが、そういう半端をすることは、いけない。

 

限られた時間の中で、最大限の効果への工夫をする。

それでも間に合わない量にいたっては、お断りをする。

 

それが、取りこぼさない誠意である。

 

よいもてなし、とは、もてなさないと、決めることと、密接に関係する。

そんなことを、40の入口で感じる。

 

冷たい事と、しないことを決めることは、違う。

ある種の視点からは同じに見えるとしても、そう評されたとしても、

それを甘んじて受け入れて、その先へ、行くべきだろう。

無理に変えないでもいい時には、無理に変えない。

40歳になり、一つの節目に。

 

メインのブログのタイトルを変えようとおもったり、いろんな起動を変更してみる可能性を考えるも、いまは、安定的にこの坂道を行こうと。

 

いずれ変えないといけない時がいやおうなく来る。割と遠くない未来に。

そこまでは、いまのやり方をフルスロットルで続けたい。

 

ただ、一つメインのブログを変えたのは、「FBボタン」と「Twボタン」を剥がしたこと。

今でもどちらも使っていて(割と良く使っていて)、あれば、イイネだのつくけれど、どれがもたらすものが、特に価値がない上に、設置した当人には、あれば気になるものだった。

 

それらのボタンが、唯一もたらしたものは、「センセーショナルなタイトルと書きだしを自分にさせる」ようなうっすらとした圧力だけ。

 

そんなものは、10年先を考えたときに、要らないものだ。

ブログの究極の読者は、未来の自分と、大きくなった時にもしかしたら、過去の父を知りたくなった娘たちだけだ。

 

10年後に意味のあることを、綴りたい。

創流は、”道奨達” プラスα 

道を作るとは、不定形の行為の中に、

学びえる「型」見出し、具体的努力の仕方を創る事。

 

流れを創るとは、その道をゆくことの継続を奨励し、

人々を熟達に至らしめること。

 

技至りてなお育つは器。

助ける「型」は狭くなる。

 

究めた道の先というのは「山頂」ではない。

「旅立ちの地」である。

器が目指すはさらなる高み。

 

送り出すこともまた、創流の一部なり。

 

流れを出た”器”がまた、次の流れを作り、

小さな流れが、連なっていき、

開祖を離れた、真理に近い”道”ができる。

茶道・柔道、いずれも、開祖とされる人はあれど、

その人の開いた流れは、さまざまな、

新しい流派を生んだ。

その分派もふくめて層の厚い全体が

茶道・柔道、を形成している。

 

 

創流は、

”道奨達”(道を作り、熟達を奨励する)である。

 

そして、熟達者を流派の縛りから送りだし、

独立分派、新しい流派、対抗する技芸を生み出していく。

それらが、全体として「真理に近い”道”」を生み出す。

 

ゆえに、創流とは、”道奨達”。その言葉に続くべきは、

”至芸分道”であろう。

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あとはもうiPadのキーボードがiPadで使えれば。

(娘のために、つくったお話) ”新、桃太郎”

 

(娘のために、つくったお話)

 

新、桃太郎

 

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桃生村、昔の田舎町

 

ある家庭に生まれた長男「太郎」。苗字はない。

 

最近は、この村はずっと雨が降らない。

 

作物が育たなくてみんな苦労していた。

 

太郎は、井戸を掘ることにした。

 

「何度も試したが出たためしがない」と村人はいう。

 

何か月も掘り続けた。

 

はじめは、バカにしていた村の人たち。

 

次第に、一人二人と、村の若者が太郎を手伝い始めた。

 

井戸掘りはどんどん早くなっていった。

 

ある日、ついに、水が出た。

 

太郎たちは、喜ぶのもつかの間、

枯れそうな畑にすぐに水をかけ始めた。

 

作物は、息を吹き返した。

 

村の人たちは、太郎たちにとても感謝し、皆で大事にその井戸を使いました。

 

 

秋。

 

多くの村では日照りで不作でしたが、

桃生町は、沢山、作物が育ちました。

 

それを聞き、村には、多くの人がに来ました。

 

豊かな水をたたえた井戸と作物をみて、

隣の村の人は、太郎にお願いをしました。

 

「どうか、うちの村にも掘ってほしい」

 

太郎たちは、改良を重ねて使っていた道具を整え

すぐに隣の村にゆき、来る日も来る日も、井戸を掘り続けました。

 

その村の若者たちは、太郎たちの人気が面白くありません。

 

この村は、土が固くてなかなか思ったように掘れません。

 

それでも、ひたすらに穴を掘りつづける太郎たちの姿に

その村の若者たちも、心を打たれて、一緒に掘り始めました。

 

数か月の後、村には豊かな水をたたえる井戸が出ました。

 

それから数年。

 

太郎たちやこの村の若者たちは、周辺の町に頼まれては

井戸を掘ってあげました。

 

そんな太郎の所に、山の向うのその向こう、黒の森の向うから

ひどいけがをした1人の男が来て言いました。

 

「うちの村はずっと日照りで子どもたちすら食べるものがありません。

 どうか、お願いです。太郎さんたちの力で村を救ってください」

 

その男は、そういうと命が絶えてしまいました。

 

 

村の人たちは、相談しました。

 

「黒の森には、鬼が出るという。

 この者もきっと鬼にやられたに違いない。

 行けば戻れるか分からないぞ。」

 

太郎は言いました。

 

「しかし、この村の子供たちみたいに、おなか一杯、

 飯が食えるように、してやりたい」

 

「長い旅になる。今回は、1人でゆこう。

 お前たちは、この村を頼む」

 

話し合いの間、若者たちはずっと無言でした。

太郎の両親も、ずっと無言でしたが、最後に

「出発まで、三日待ちなさい」と言いました。

 

いつも先頭きって掘る太郎の道具はもうボロボロでした。

村の若者たちは、軽くて丈夫な新しい道具を太郎に作りました。

 

両親はほしいい(炊いて乾かしたお米)を沢山、用意しました。

 

皆の気持ちを持って、太郎は黒の森の奥へと旅に出ました。

 

山を越えると、道中の村は皆、日照りに苦しんでいました。

 

「目的を果たしたら、必ず井戸を掘ろう」と心に誓い先を急ぎました。

 

 

さらに山を越え、黒の森。

 

「この森は、昼間だというのに道の先が夜中の様だ。」

 

太郎はひるまず進みます。

 

しばらくいくと、木の上から、泣き声が聞こえます。

 

見ると鬼の子が罠にかかってつるされています。

 

太郎は、鬼の子をじっとみて、悪い鬼ではないとわかり、

助けてあげました。おなかの空いていた鬼の子に太郎はホシイイを

水でもどして沢山食べさせてあげました。

 

鬼の子は、みるみる元気な体になると、

屈託のない笑顔で、ありがとう、といって、飛び上がると、

森を突き抜けて飛んで行ってしまいました。

 

太郎は先を急ぎます。

 

ついに、あの男の村につきました。

 

太郎は、その男の形見を村人に渡します。

村人たちは、食べるものがなく皆弱っています。

 

太郎は荷物を下ろすと、すぐに井戸掘りにかかりました。

 

それから何か月も、1人で堀りました。

 

太郎は、、苦労をしていました。

今までにないくらい、固い岩に突き当たりました。

仲間の作ってくれた道具もすでにぼろぼろ、

両親の用意してくれたホシイイも、底を尽きかけていました。

 

 

ある晩、穴の中で眠ってしまった太郎の元に、あの鬼の子がよってきました。

 

鬼の子は無邪気にいいました。

 

「この穴を掘ればいいのか」

 

そういうと、風のように腕を動かしすごい勢いで穴を掘り始めました。

 

固い岩もやわらかい土のようにさくさくと掘ります。

 

そして、ついに「ぷしゅ!」と、水を掘り当てました。

 

そして鬼の子は、「おいら達の力を一つ上げよう」というと

 

走りすぐに戻ってきました。

 

不思議な爪のついた小手。

 

それをひょいっと太郎に投げると、もう鬼の子はいなくなっていました。

 

太郎はつけて掘ってみると、どんな土でも簡単にほれました。

 

太郎は日の出までに、太郎は、井戸から各畑への水路を作りました。

 

そして日の出までに完成し、太郎は寝てしまいました。

朝日を浴びると、鬼の小手はすっと消えてしまいました。

 

 

朝。

 

水の流れる音で村人たちは、驚いて目覚めました。

 

日照りで枯れていた畑に、水が来ています。

 

村人たちは、太郎に感謝し、水を飲み、畑に水をまきました。

 

 

しかし、太郎は日が昇って、夜になって、次の朝になっても目覚めません。

太郎はそれから、ずっと井戸のわきで眠り続けました。

 

 

それから一年。

 

村の畑には作物がしっかりと実りました。

 

村長の家に運ばれた太郎がついに眼をさまし、子供たちがおなか一杯ご飯を

食べている姿を見て、喜びました。

 

村人たちは、太郎に感謝とともに、道中の食べ物を持たせました。

 

桃生の村へ帰る道中、太郎は行く先々で、井戸を掘ってあげました。

 

 

太郎の通った道沿いの村は皆、沢山作物が撮れるようになり、

感謝した人たちは、お礼の作物をもってくるようになりました。

宝物のように、つややかに実った果物や珍しい野菜が村に届きます。

 

桃生(ものう)の太郎が開いた井戸は、いつしか、桃太郎井戸、と呼ばれ

人々を飢餓から救ったとしてずっと感謝されました。

 

 

 

 

 

まず、20人に会う

人が日常付き合えるレベルで20人、
組織内で把握できる人数は100人、
記憶から呼び出せる人数は、クラスメート50×小中高12規模から見積もって、1000人。

そうざっくり仮定すると、「1コワーカー人」、「1コグニシャス人」、「1スクールデイズ人」。という人数感があるかと

石井私見です。

 

こんなことを昔書いたのですが、今もそう思います。人間が認知でき、すぐにザーッと回想できる人間の顔は、多分短い時間だと50人。あいまいな高速検索でも100。結構頑張って、一日中思い出しても1000に行けるかどうか。

サービスを立ち上げる、地域の人々を対象に何かする、商品の市場を見積もる、そういう時に、仮に「完璧コンピュータ」が存在して、商品のお客さん12,739人は、この人たちです!、とか示してくれて、その人たちに喜んでもらえるものを作れば、大成功の確約があるとしても、そんな人数は人間が認知できる数ではなく、せいぜい、「あーだいたいこの辺」って言ってしまうのは多くて、20人。結構緻密に「〇〇パターンの人」みたいな分け方をしても50で頭打ちになる(認知飽和、という人間の頭の特性が関係する)はず。

そう思うと、少しだけ母集団を多くしたうえで、その中の20人をつぶさに見ることができれば、「完璧コンピュータ」が教えてくれる将来のお客さんをみんな見た時と、人間はあんまり変わらない程度に、商品化の精度はあげられる。

実際は、20人の想定ターゲットに会っておく、なんてことは、ほとんどないし、20人にあった人は、かなり「語れる」。そこには、いくつかの人間の本質に迫る気づきも含まれていたりして話しだけでも面白い。

だから、思う。

 

厳選20人でなくてもいい。まず、20人に合おう。

何かを作る時に、迷うか、新しいアイデアが欲しいなら。

 

それじゃ、足りん、と、本当に言える資格のある人は、1憶二千万人の中に1,000人もいない。

 

学んだ量は学べなくなる時期の伸びシロ

若いうちに思い切り学んでおかなきゃ、いけないよ。

将来、あなたが切り開く道は、未踏の道だ。
いったん進みはじめたら、学びに使える時間はごく僅か。
学び続ける姿勢は大事にしつつも、時間は僅かなんだ。

学んだ量は学べなくなる時期の伸びシロ。
楽できる今じゃなく、未来をとるべし。

 

石井私見です